解説

新刊

著書

「日本のボースとカレー」

―大東亜戦争に見る日本とインドとの接点―

(上)2018年11月5日出版

(中)2018年11月27日出版

(下)2018年12月8日出版

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英語版

Rash Behari Bose

―The Father of the Indian National Army―

volume 1

volume 2

Rash Behari Bose cover

標準
解説

はじめに

日本の歴史にも大変重要な印度革命の志士

ラス・ビハリ・ボース

を通して真の世界平和とは何かを学び人類の繁栄を応援するプロジェクトです。

ボースの著書のうち「独立の闘争」は完成していますので、宜しかったら御覧ください。

『ボース』という名前を聞いた時、誰を思い浮かべますか?

私がこう訊ねてみたら、ほとんどの人がボースという名すら知りませんでした。そして、おぼろげに知っている人でさえもスバス・チャンドラ・ボースしか知らず、ましてやラス・ビハリ・ボースの名を知っている人などほんの一握りしかいませんでした。

ラス・ビハリ・ボースの名を聞いたことがあると言う人でさえも、ラス・ビハリ・ボースとスバス・チャンドラ・ボースのイメージが重なってしまって、ラス・ビハリ・ボースがいったいどういう人物であったのかはっきり答えられない人がほとんどだったのです。

ラス・ビハリ・ボース無くして今の日本もインドも、はたまた人類の存続すら可能ではなかったであろうと言っても過言ではないほどラス・ビハリ・ボースは私達にとって大切な人物なのです。だからこそ、これは大変遺憾なことだと私は思います。

こういう私も恥ずかしながら、2016年の11月まではラス・ビハリ・ボースとスバス・チャンドラ・ボースをはっきり切り離して考えることが出来ませんでした。

そんな私が、2016年11月1日には、運よくラス・ビハリ・ボースの著書を解読する運命にたどり着いたのです。

腰を据えてラス・ビハリ・ボースの著書を読んでいくうちに、私はすっかりラス・ビハリ・ボースの虜になってしまいました。どうしてかといいますと、ラス・ビハリ・ボースの著作物の中には真実がはっきりと表れていたからなのです。

私はボースの真実を出来るだけ多くの人と分け合いたいと思いました。その思いがこのブログを立ち上げた理由です。つまり、ラス・ビハリ・ボースの言葉を皆様にお伝えするのが私の願いなのです。

インド人のラス・ビハリ・ボースは日本語で貴重な本を数多く出版しました。英語でもインドの言葉でもなく、日本語で書いたのです。

それはもちろん、ボースが出来るだけ日本の皆さんと会話したかったから、皆さんと心を繋げたかったからなのです。

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ラス・ビハリ・ボースと俊子御夫妻

はてさて、書物を手にした私は意外なことに驚きました。28歳でたったの4つしか日本語を知らずに日本に亡命してきたボースが11年後に書いた日本語を私が読みこなすことがことが難儀だったということです。一応最高学府まで終了した方でも、戦後に生まれ育った日本人にとってはボースの本を読むのは決して簡単なものではありません。それは次のような理由からなのです。

日本が1945年8月から1952年4月までアメリカに支配されたことは皆さんもご存知のとおりです。つまり、日本が存在しなかった真空の7年間が存在したのです。その間、日本語はアメリカ進駐軍の手によって、意図的に変えられてしまいました。結果、戦後の世代は1945年以前に書かれた文献が簡単に読み解けないように教育されてしまったのです。

私は、ラス・ビハリ・ボースの名で出版された本を一字一句正確に、丹念に読む努力をしました。旧漢字を学び、漢文調の書き方にも馴れ、旧仮名遣いにも、漢字で書かれた国名、地名、単位などに馴れました。なぜなら、ボースの書き残した書物の重要さを強く感じ取ったからです。

入念に読み上げて行きますと、意外に誤解していた部分がかなりあったことに気付きました。ボースの本は、簡単に斜め読みをして独断で理解したという錯覚で満足するには余りにももったいない本なのです。

毎日毎日ボースの著書に接しているうちに、私はボースから大変貴重なものを学びました。それは、人間の歴史であり、人類の文化であり、哲学であり、宗教であり、心理学であり、道徳であり、社会学であり、そして人生学でした。その上、驚いたことには、ボースの本を読むことで現在私が接している問題までが明瞭に解決出来たのです。

ボースの言葉は過ぎ去った日の言葉ではありません。現代を生き抜き、将来の問題に立ち向かわなくてはならない私達はもちろん、私達の子や孫までが必要とする言葉なのです。

私は、ボースの言葉によって、私が如何に多くの難関を越え、難題を解き明かす力を得たか言葉に言い尽くせません。

それだからこそ、ボースの言葉を出来るだけ多くの人達に伝えたいというのが、今の私の願いなのです。ボースの言葉は読む人の強い心の支えとなることは間違いないと思うのです。

ボースの言葉が皆様のお役にたつように、それを強く願って今日このブログを立ち上げました。

このブログでは、ラス・ビハリ・ボース執筆の本を皆さんに話しかける形で載せて行こうと思います。ラス・ビハリ・ボースが生き返って、皆さんにお話をしているように、それをイメージし、書き直しながらブログを構成していく計画です。

出来ることならば、日本人の大人は勿論、子供達にも、尚且つ、日本在住の印度人たちの日本語学習の教材としても役に立てれば、それはそれは大変素晴らしいことだと思います。

このブログは、どの人種が悪者でどの人種が優れていて、といった類のことを打ち出すことを目的とはしていません。事実を理解し、悪を排除し、世界中の人間が平和に仲良く暮らしていくための、それを応援するための、ほんのささやかな人類応援のブログです。

ラス・ビハリ・ボースの自伝は「独立の闘争」をお読みください。

最下部のarrowをクリックして読み進んでください。

 

このサイトの趣旨は紹介を御覧ください。

ラス・ビハリ・ボースの本をご自分でお読みになりたい方は著書をご利用ください。

© 一般公開は致しておりますが、出版予定になっておりますので、掲載内容のコピー、掲載は一切お断り致します。

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解説

ラス・ビハリ・ボース

ラス・ビハリ・ボースが日本語で書き残した大変貴重な本を題材に連載小説形式で一部のみ紹介いたしております。

© 一般公開は致しておりますが、出版予定になっておりますので、掲載内容のコピー、掲載は一切お断り致します。

「独立の闘争」の目次はメインメニューに用意してございます。

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[初めに]をまずお読みください。

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4.大東亜戦とインド独立の闘争

窒息の一歩手前

去る昭和15年(1940年)8月8日英下院でインドビルマ相エメリーは次のように言明した。

「イギリス政府は将来インドに憲法を付与する意向ではあるが、イギリスがイギリスの生存のために戦争をしている現在、この問題は決定出来ない。

イギリス政府は戦争が終ってから、インド新憲法作成委員会を結成する。」

さらに、インドビルマ相エメリーの云うところによれば、イギリス政府は、インド太守兼総督リンリスゴー卿に若干の憲法修正をすることを委任し、総督執行会議を拡大して、その中にインド人を参加させることにした。更に軍事評議会を創設して、これにもインド人代表者を参加させることが明らかとなっている。

インド人たちは直ぐにインド国民政府を結成したいとイギリスに強く要求している。それに答えて、イギリス帝国主義者はインド人は軍事評議会へ若干のインド人代表者を送ることで満足すべきであると提唱しているのである。

しかし、この軍事評議会は、イギリスがイギリスの支配権を存続するために行っている戦争の評議会でしかない。インドが参戦してイギリス帝国を助けることを強いるものなのである。

イギリス帝国主義者は、戦争が終了した後にインド憲法について考慮するとを約束している。しかし、インド民衆はもはやこのような約束は信じない。

第一次欧洲大戦でもイギリスは同じ事を約束した。イギリスはインドに助けてもらって戦争に勝ったにもかかわらず約束を破ってインドに自治権を与えなかったのである。

欧洲大戦当時、イギリスはインドに援助を乞い、その代償として民主主義憲法を贈ることを約束したのである。それに答えてインド人はイギリスに絶大な援助を与えた。多くの戦線に総数約150万の兵士や労働者を送り、また、イギリスの軍事予算をカバーするために、巨額の資出をしたのである。

戦争後イギリスがインド民衆に与えたものはインド憲法ではなく、大衆的銃殺であり、牢獄であり、前より3倍も強固な圧政であった。

インドは欧洲大戦でこのような苦い経験をした。去る8月8日のエメリー相による提案に対し、インド国民会議は5日間話し合った後、否決した。

「国民会議と総督との交渉にとって、何等の基礎にもならぬ」

英帝国主義者は、上の様なインド国内情勢を、新たなる弾圧、逮捕と銃殺によって「矯正」しようとしている。

インド人はイギリスに対して最小限度の要求をしているが、彼等は断然インド人の要求を容れることを拒絶し、インド国内にテロを強化している。

このように、インドの情勢は依然緊張し続けているのである。

インド民衆は広汎にわたって、いよいよ貧窮の最後の線まで追い詰められている。

イギリスによる圧制と残忍な奴隷制は、インドの数百万人もの民衆を窒息させようとしているのである。

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4.大東亜戦とインド独立の闘争

共通の敵への闘争

インドは長い幾世紀かの間、独特の方法により農業と工場手工業とが結合されていた。全く孤立した数万の農業と工場手工業が自給自足で存在し、お互いに土地を共有していたのである。これに関して、マルクスは次のように書いている。

「回教徒とインド教徒の間だけではなく、種族と種族、カースト(インドの階級)とカーストとの間で互いに孤立している国。従って、この全社会的な相互反発と、そのすべての成員が互いに幾世紀にわたって作り上げた孤立性とに基づく、ある種の均衡を基礎に含んでいる社会。このような国と社会が、果たして獲物を争いあうように運命づけられないでいられたであろうか」

18、9世紀に英資本家は、数十の部族国家および王侯をイギリス王の権力下におき、部族国家を使って着々とインド諸民族を単一国家へと纏め上げたのである。

外国の権力ではあるが単一の権力、嫌うべき法律ではあるが単一の法律にもとづいて行動する裁判所。国家の公式語として全国に通用する英語。同一の通貨体制。その他多くの要素は、インド住民の結合を助長した。

過去90年間にイギリス資本家は、本国に工業用原料と食料品を供給し、逆に、イギリス生産品を消費出来るような、新しい経済をインドに樹立した。

鉄道の建設は貪欲な触手のように2、3の地点から奥地に伸びた。鉄道を建設することで、インドの奥地から必要な原料を運び出し、またインドの奥地へランカシャーの織物を売り込む。それを可能にしたのが鉄道である。

また、10数種の新しい生産部門および大工業中心地を作り、通貨権力を確立した。

上記のこと全てが、インド統一の重大原因となった。そして自給自足の相互の孤立した土地共有体は、自己の経済的基底を失って解体してしまったのであった。

零落した職工ならびに紡績工は、飢饉のため滅亡し、代わって大小の工場が興り、厖大な労働者階級が出来た。資本主義的社会関係は、農村にも浸透した。農民は半未開な土地共有体の利害関係から抜け出し、共通の敵に対する闘争へ向かって団結するようになったのである。

 

イギリス資本家によって建設された殺戮的植民地体制の内部には、イギリス資本家の意志とはなんの関係もなくインドに経済的、社会的、政治的力が生まれ、そして強まったのである。この力こそがインド民族に強固な反イギリス運動を起こさせたのである。

百年、二百年前までは、王国もイギリスも同じように考えられ、支配者の更迭についてもどうでも良かった。しかし、いまやインド解放を希求しない労働者や農民や手工業者やインテリは一人もいない。

インドが独立国家になれば、インドの一切の富と資源はインド国民のものとなるだろう。そして、この民族解放運動の権力を握っているのは、インドの賃金労働者である。賃金労働者こそが農民と同盟を結んだり、反イギリス機運にいる地方中産階級と連合体を促進したりするのである。

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4.大東亜戦とインド独立の闘争

民族統一の勝利

独立と民主主義のために闘争するインド民衆の統一的中心機関はインド国民会議派である。

この機関は、50余年前にインドブルジョアジーによって結成されたもので、その目的はイギリス政府から若干の経済的、政治的譲歩を得ようとすることであった。

第一次欧洲大戦当時、イギリス資本家は、武器、軍需品の生産に忙殺されて、インドへのイギリス商品供給をほとんど停止してしまった。このためにインド工業(主として繊維工業)は急速な成長をとげ、この成長と共にインドブルジョアジーの勢力が強化し、それにつれて、プロレタリアートの陣営も強化した。

欧州大戦終了後、インドにいたイギリス資本家たちは、インド工業ブルジョアジーをその地位から追いのけはじめた。このためにインドブルジョアジーは、イギリス資本家と闘争しなくてはならなかった。

闘争は、民族独立と民主主義と農業革命を要求する労働者や農民に接近して行った。1937年に反英帝国主義の新らしい高まりが見られたが、その特徴は以前には見られなかった大衆の統一機運であった。

この運動の結果、国民会議派のメンバーが急速に増員された。3、4年前に僅か4、50万だった国民会議派は、今日では実に5、600万のメンバーに増えている。

国民会議派の中には、社会主義者、共産主義者および左翼民族主義者により成る左派が組織され、この左派が右翼のイギリス帝国主義者との妥協企画に対して闘争しているのである。

1937年4月、イギリスが作成したインド憲法が発動した。この憲法によって、英領インド11州に、いわゆる「自治」が付与され、これら自治州には議会と内閣が結成されたのであるが、その議会と内閣は、イギリス人州知事の完全な独裁権力下にある。知事が一人で全財産を切り廻す、この奴隷的憲法によって、草案者は各州の民族運動を狭い枠の中に閉じ込めようとしたのである。

しかし、州議会の選挙は帝国主義者の意図を完全に裏切った。

7つの州では、選出議員の大半が国民会議派であった。この7州および後には第8の州においても、国民会議派の州政府が組織された。また第9(ベンガル)第10(パンジャブ)両州でも国民会議派に近い進歩的党派に投票が集まったのである。しかし、選出された議員が、自分の選挙人を裏切り、反動的な回教徒連盟に加盟した者もある。

この選挙は、民族統一の勝利であった。11州中の9州で民衆が国民会議派に投票したのである。

イギリス帝国主義者は、インド面積の4分の1を占める約600の部族国家を自己の勢力下においている。部族国家の頭はイギリスの操り人形になっている封建王侯である。部族国家は何度も英官憲の指令にしたがって、英領インドの農民の蜂起を血の中に鎮圧したのである。しかし、今日では部族国家の勤労農民や手工業者自身がイギリスの圧制と不法に対して決起するようになり、彼等は全インド反イギリス帝国運動の流れに入りつつある。

インドの諸民族は、このような統一の実感を今日まで全く知らなかったのである。

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4.大東亜戦とインド独立の闘争

独立要求のストライキ

インドでは最近、重大な国際的意義を有する諸事件が起こっている。

一年前、イギリスが3億7000万インド国民の意志に反して、インドに対独参戦を宣言した時、全インドのヒマラヤからセイロンに至るまで、社会秩序が乱れた。越えて(1939年)10月2日、ボンベイの9万の労働者と1万の学生は一昼夜の政治的ストライキを行った。彼等の利害に無関係な戦争に対して抗議するとともに、インドの完全独立を要求した。

このストライキを指導したのは、1933年に組織されたばかりのインド共産党であった。共産党員は反戦運動に死刑をもって臨む峻烈な法律にも驚かず、今次大戦はじまって以来、世界で最初のプロレタリア的政治的闘争を大胆に展開した。

ストライキの波は、日一日と高まった。参加したのはアフメダバッド、ショラプア、カウンプアの繊維工場労働者、アッサムの石油労働者、カルカッタの街路掃除労働者、ナグプアの鉄道労働者であった。

昭和15年の一、二、三月に全インドの登録工場におけるストライキ延べ日数は400万日に上り、また同期間に非登録の小工場においてはストライキ延べ日数が数百万日を数えた。

一方、土地を持たない数百万の貧農大衆は、地主、高利貸し、英人徴税吏、裁判所の専制に対して、決然、闘争を開始した。かれらは急速に共同闘争の力を認識するに至った。こうして全国に多くの革命的な農民同盟が出現し、その中には既に85万の農民が包含されている。

鎌と槌の赤旗、都市労働者の旗は、農民の闘争する旗ともなった。農民の大デモンストレーションの先頭には、いつも、赤旗を持つ旗手が立っている。

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4.大東亜戦とインド独立の闘争

ソ連のインド独立観

イギリスがインドを失うか、インドが多年の宿望を達して独立の旗を押し立てるか、この問題こそは、第二次世界大戦における最も大きな課題の一つと云えよう。

インドの独立によって、大きな影響を受ける国の一つにソ連がある。

ソ連は既に知られているように、世界の労働者階級の解放と、植民地被圧迫大衆の解放と、この二つをスローガンとして掲げている。従って、ソ連にとってもインドの解放、独立ということは最大関心事である。

ソ連は中央アジアにおいて、直接インドと国境を接しているので、インドの解放、独立は、植民地解放以上のものが含まれていると見なければならない。こうした理由から、ソ連紙はインド独立問題を盛んにとりあげているのである。

ソ連青年共産同盟機関誌コムソモーリスカヤ・プラヴダに掲載された「独立のために闘争するインド国民」なる一文(エコノミスト誌による)をここに紹介しよう。

この一文の筆者エレオン・クランチは、おそらく、有力なインド共産党員であろうと推測される。従って、意見はインド共産党の立場から書かれたインド独立運動の現状とも云うことが出来よう。兎に角、インド独立をめぐって、こうした観点から、インド民衆に呼びかけている筋もあるということの資料にされたい。

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4.大東亜戦とインド独立の闘争

独立機運に燃え立つ

皇軍のインド東門制圧によって、インドの国内事情はいよいよ騒然たる情勢を呈している。

ガンジーが近く開かれる国民会議派大会に反英運動に関する新提案を行うであろうと伝えられているが、この点についてのカルカッタ方面からの情報は次の通りである。

「イギリスがインドから手を引きさえすれば、インドは外敵の進攻を受けないであろうから、その基本方針であるガンジーの消極的抵抗政策は目的を達するわけである。ガンジーの主張は、今日でも一種の宗教的の意義すら感ぜられているのであるから過小評価することは出来ない」

インド民衆に対するガンジーの勢力はだんだん高まり、今日ではガンジーの他にインドの危機を打開出来る者はいないだろうとも云われて居る。

こうした情勢の中にあって、外電はガンジーとネールが対英問題について会見するであろうと伝えている。一方、カラチからの報道では、インド西北国境地方でインド人の反英暴動が勃発したと伝えている。

このような国内の活発な動きに呼応するかのように、ドイツにいる独立運動の志士チャンドラ・ボースは、イタリアを訪問してムッソリーニ首相、チャーノ外相をはじめ、イタリア要人と掘切駐伊大使以下日本の陸、海軍武官と会談したた。その後ドイツに帰ってヒットラー総統、リッペントロップ外相、大島駐独大使等と会談している。

この会談は、欧洲各方面にも、異常なセンセーションを巻き起こしている。ドイツ政界の消息筋では、この会談を目して次のように述べている。

「欧洲新秩序建設の闘争に万進するヒットラー、ムソリーニ両巨頭は、今やインドの将来を代表する指導者たるチャンドラ・ボース氏とも直接的接触をもつことを世界の与論の前にあきらかにしたもので、意義は極めて重大である」

半官筋でもこれを重視してチャンドラ・ボース氏の固い決意を端的に示すものであると洩らしている。

「チャンドラ・ボース氏の独伊両巨頭との会談は、チャンドラ・ボース氏があくまでインド独立運動に万進するものである。今後イギリスがどのような態度を示そうとも、これと決して妥協することはないであろう」

これらの情勢を総合して、静かに観察するとき、インドはまさに独立にむかって勇敢なる活動を開始し、独立の機運は活火山のような勢いであるということが出来よう。

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