解説

ラス・ビハリ・ボース

20世紀前半はアジアが西欧による植民地政策の苦しみに喘ぎ、その悪の手から抜け出した苦闘と勝利の時代です。

ラス・ビハリ・ボースは1915年、29歳そこそこでイギリスの魔の手を切り抜け、インドから日本に亡命して来ました。亡命当時日本語の言葉を4つしか知らなかったボースは、その当時東洋の救世主であった日本人達と深い友好を結び、日本文化に溶け込んで行きます。

ボースは日本語を独学で学び、亡命13年後、1929年には「革命亜細亜の展望」という本を日本語で出版しています。それから、精力的に数々の本を日本語で出版し、日本人達のインド理解に大きな役割を果たしました。

日本に亡命して27年間の尽力の末、ボースは日本占領下にあったインド人や、日本人の心をしっかりと繋ぎ、1942年遂にインド国民軍(INA)を結成し、次いでインド仮政府を創立させます。

当時の日本人の心を動かしたボースの偉業は、インド独立を達成させる大きな要因になったばかりではなく、ボースの死後も、東京裁判で日本無罪判決を下したパール判事、日本分割占領を食い止めたセイロン(現スリランカ)代表ジャヤワルデネ氏と続き、日本の独立まで助けたのです。

現在、私達はラス・ビハリ・ボースの本を通じて当時の日本、GHQ統治以前の真の日本らしい日本を垣間見ることができます。私達が西欧に捻じ曲げられた日本の歴史、文化、民族観から脱出するには、ボースのような第三者の目を通して当時の日本や日本人を見直すことが大切なのです。

そのような意味で、ボースの本は、これからの日本のあり方、日本人のあり方を見詰直すために役に立つ貴重な遺産なのです。

皆様には、ボースを理解すればするほど、現在、益々強まる日印の絆にはラス・ビハリ・ボースの貢献が多大であることがお分かりいただけると思います。

そのラス・ビハリ・ボースが日本語で書き残した大変貴重な本を題材に連載小説形式で紹介いたしております。ぜひお楽しみください。

© 一般公開は致しておりますが、出版予定になっておりますので、掲載内容のコピー、掲載は一切お断り致します。

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1.我が闘争の記, 独立の闘争

計画水泡に帰す

 

1915年の2月19日朝、私達はラホールで革命を決起することになっていた。武器、弾薬、人を配置し準備は整っていった。綿密な計画を建て、連絡を取り合った末の大決起であったはずだった。

ところが、計画は漏れ、我々は事件を起こす前に、本部の一軒がイギリスの警官隊によって包囲されてしまったのだった。

計画がばれてしまった以上私達インド革命の志士たちは破れかぶれに攻撃するしか他はなかった。

屋内にいた党員が拳銃に身を構えて侵入する警官隊を目掛けて乱射する。爆弾や手榴弾を投げつける。警官隊も盛んに私達めがけて撃ってくる。

静かな朝の街は忽ち修羅場と化した。

民衆は驚いて逃げ惑う。銃声と爆弾の炸裂する黒煙、白煙。それにまじって怒号する声…

私達の弾丸がつきた時には、負傷者や戦死した党員の死体があちらこちらに横たわっていた。

警官隊はその死体を乗り越えて屋内に乱入し、生き残った党員を一網打尽に逮捕してしまったのであった。

一ヶ所の本部が襲撃されたことは、直ちに残る三ヶ所の本部に伝えられた。出鼻をくじかれた私達は立ち遅れて全く手も足も出ない状態にあった。

私達が行動出来る機会を待ちながら様子をうかがっているうちに夕方になっても動けずにいた。その間、革命党の本部付近はイギリスの警官隊に包囲されてしまっていた。

日暮れ前に二人の革命党員が停車場から汽車を降りて一つの秘密本部へ向かった。その者たちが用心しながら警官隊が張った非常線を突破しようとするやいなや、物陰に隠れていた警官が飛び出してきた。

「待て!どこへ行くんだ。」

不意をつかれた党員は動揺し前後の思慮も分別もつかなかった。

「ええい、面倒な!」

党員はいきなり拳銃を出してパンパンと続けざまに銃を2、3発討った。その玉を受けて警官が一人その場で即死してしまった。この光景を見た警察隊が大勢飛び出してきて、その二人の党員を取り押さえてしまった。

その二人の党員は懐中に秘密本部の住所が記された紙を所持していた。それによってまたもう一つ別の本部も警察隊に襲われ、そこでも数名の党員が逮捕されてしまった。

残るは私の秘密本部ひとつとなってしまった。こうなってしまっては全く手も足も出しようがなく、今やラホール近くのフェロースポール連隊の蜂起を頼みの綱とするばかりとなってしまった。

フェロースポール連隊は、約束の時刻であった夜の12時よりも3時間前に暴動を起こした。しかし、この動向でさえもイギリス軍隊が察知しており、哀れ50人のインド兵同志はイギリス軍の機関銃の標的となって恨みの死を遂げたのであった。

各地の軍隊も陰謀が発覚して目的を達することを得ず失敗に帰したという報告が私の所に次々と届いた。

私は天に向かって溜息を洩らすことしか出来なかった。

「ああ、遂にこれで終わりか——」

私は絶望の淵に突き落とされた。

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1.我が闘争の記, 独立の闘争

決起の時期到る

当時ラホールの革命党の秘密本部は四箇所に分かれていた。

私のいた秘密本部は同志の一人であるラム・テラン・ダースの家であった。ダースの妻は妊娠9ヶ月の身重だったので、よもやこんな所を革命党の本部にしていようとは誰も想像しなかった。此の家では、常に二階に干物を干しておいた。二階に干物が出ていれば、内部に「異常なし」の信号とした。もしも干し物が出てない時は内部に変事が起こっているから入ってきてはいけないという知らせで、この信号は四つの本部の幹部だけが承知していた。

他の三ヶ所の本部も壁に紙を貼りだして無事の合図としたり、そのほか、思い思いの方法で秘密連絡をとった。

機はいよいよ熟した。私達は1915年の2月21日の夜半から22日の払暁にかけて決起することに決定した。

私達はその日の来るのを手ぐすねひいて待っていた。決起の4、5日前に英国の官憲に妙な動きが見られた。英国の官憲が急にインド軍の武装を解除して、ラホール付近のイギリス軍隊を動員し始めたのである。これを見た私は、党員の中にスパイがいるに間違いないと思った。この計画は細大洩らさずイギリスの官憲に報告されているのが手に取るように見えた。

イギリス軍の動きを見て、私は21日まで決起を待つことは不利だと思った。私は急に予定を繰り上げて19日に決行することにし、付近のインド軍に予定日の変更を伝えた。

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1.我が闘争の記, 独立の闘争

爆弾で負傷

災難はどこに転がっているか全くわからないものだ。

ようやく武器も集まり、凡ての準備が順調に運んだ。この分なら思ったよりも早く叛旗を翻すことが出来ると喜んでいた矢先に事件は起きた。

ある晩のことだった。私が爆弾の検査をしていたら、突然に爆弾が自然発火し耳をつんざくような音を発して爆発した。私と同志は大怪我してしまったのだった。

イギリスの眼に隠れて行動していた私たちは、医者の手当て一つうけることすら容易ではなかった。計画が露見しないよう医者を選ぶことにも細心の注意を図った。秘密に計画を運ぶには、想像以上の苦心と余計な骨折りや無駄をしなければならないものである。

運よく、速やかに自動車で知人の医者を訪ねて手当てを受けることが出来た。私は回復を待ってそこで二ヶ月間寝て暮らさなければならなかった。

この思いがけない事故のために決起の日を延期せざるを得なかったのである。

活動の時期を逸したため、私は活動の中心をベナレスからラホールに移した。

私は、ベナレスの軍隊を扇動する任務をある同志に与え、又、ある同志には、中央州のジャバルプールで同じような行動をとることを命じてから、夜暮ひそかにラホール行きの列車に乗り込んでベナレスを去った。

ベナレスを後にした時の私の心は勇ましさで一杯であった。大仕事に取り掛かる期待で全身の血が沸きかえっていた。

ベナレスからラホールに行くには、途中でデリーで一度汽車を乗り換えなければならなかった。私達は真夜中にデリーに着いた。デリーでは、あたりに気を配りながらラホール行きの汽車に滑り込んだ。

車内にたどり着いた私は、やれ安心と一息ついた。まずは煙草の一ぷくでも吸ってはと、懐中から取り出した煙草をくわえて火をつけた。煙草を口にくわえ、見るともなしにふと顔をあげて座席の前を眺めて私はハッとした。全身から冷水をぶっかけられたように体が凍りつき、思わずくわえた煙草を落としそうになった。

なんと、私の目の前の座席に腰かけていたのはデラドゥンの任地で顔見知りの警視だったのである。

しかし、天の助けであったろう、警視は身を斜めにして座席の背にもたれて、よく眠りこんでいたのだった。私は心の内で神に感謝しつつ、私の供の者にそっと小声で囁いた。

「別の車に乗換えるぞ」

私の供は、『先生変なことを云うなあ』といわんばかりの顔をしたが、私の目の色を見て急を悟って無言で私の後ろについた。さすがは革命に投ずる青年だけのことはあった。

私達は警視が眼を覚まさないようにと、抜き足差し足で彼の前を通り抜け、列車のデッキに出た。それから次から次と車室を通りぬけて、最後部の車室に辿り着き危ない瀬戸際を脱したのだった。

やがて私達は無事ラホールに着き同志の出迎えをうけた。ラホールに着いてからの私の責任は大きかった。

革命が成功する為には、北インド各地で一斉に革命を起こす必要があると考えた私は、ラホールからベンゴールまで連絡をとった。私がラホールで革命を起こすと同時に、各地一斉に呼応して兵を挙げる手はずをきめたのだった。

連絡を受けた北インド各地の同志や軍隊は、ラホールで兵火の上る日を今か今かと待ち構えたのであった。

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1.我が闘争の記, 独立の闘争

ガンジス河の密議

私がシャンデルナゴルに潜んで何日か過ぎると官憲の捜索の手も少しづつ緩んできた。或る夜私は船に乗ってガンジス河をさかのぼり、明け方ノボッディップに上陸した。そこから汽車にでベナレスに行き、同地の同志と会合し、あらかじめ借りさせておいた家に落ち着いて、その夏を過ごした。

その年、1914年7月28日に欧洲大戦が勃発し、まさに世界各地が動乱の渦に巻き込まれていった。もちろんインドも例外ではなく、1914年後半、インド国内の情勢は緊迫していた。

欧洲大戦勃発を機に米国で活動していた印度革命党議員が続々とインドに帰国してきた。そして、これらの帰国者は、しきりとドイツがインド革命を援助するということを訴えたのであった。

「ドイツがインド独立を助けてくれる。今こそ一斉に立ち上がるべきだ」

空のよく晴れた月の美しい或夜、私達はガンジス河に船を浮かべて、同志会議を開いた。

その会合に集まった者は、ドイツからの知らせを持ってアメリカから帰国したビングレー、カルカッタから駈けつけたチャテインドラナット・ムカルジ、ロシアに行って現在は投獄されているローイ等あわせて8名、どの顔もインド革命に加わる一流の首領株であった。

これ等の志士が集まって革命反乱の決行に関する件で論議を交わした。意見は様々であったが、一応話が纏まった。

『今、北インドに革命を起こせば、欧州戦争で四苦八苦している英国はとてもインドの革命を抑えきれないであろう。

ドイツの援助の有る無しにかかわらず、今日をおいて革命の好機会はない。今こそが決起する時だ』

事を起こすには一刻も早い方がいい。各方面に密使を急派し、すぐさま反旗を翻す準備にかかった。最初の難関は兵器、弾薬をどのようにして秘密に集めるかということだった。

ひとたび叛旗を押し立てれば、その旗の下に集まってくる同志は全国にいくらでもいるが、兵器、弾薬はそう簡単に集められるものではなかった。私たちは武器を手にする方法に苦心惨憺した。

おりよく、カルカッタのローダ商会という英人の経営している武器弾薬の輸入商が、本国から50挺のピストルを輸入して、インド人の書記に其れを受け取りに税関へ行かせる手はずになっていた。

その書記こそが武器弾薬の輸入商に忍び込んで働いていた我々の同志であったのだ。同志は税関でピストル50挺を受け取ると、ローダ商会に運ばず、そのまま党の本部へ運び込み、直ちに党員の間に配ったのだった。

こんなことがあったおかげで、難しい武器収集も何とか乗り越えられるのだということを知り、同志はかなり勇気が沸いたのであった。

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1.我が闘争の記, 独立の闘争

私の首に一万二千ルピー

私は一人の部下と共に、遊郭の真ん中にある同志の兄の妾宅に、10日間潜んだ。

私がシャンデルナゴルに着いたころ、私は賞金7500ルピー(約9000円)のお尋ね者になっていた。もし私をかくまってくれた道楽者が賞金に目がくらんで心変わりしたり、お妾さんが賞金欲しさに密告したら私は捕まってしまっていたに違いない。

彼等にも久しく眠っていた愛国心が呼び覚まされたのであろう、あの道楽者もお妾さんも密告するどころか、私を匿い親切にしてくれた。

賞金をかけて血眼になって捜し廻っている英国官憲も、まさか私が娼婦街に隠れているなどとは想像もしなかった。私にとっては安全な隠れ家だったが、いつどんなところから発覚するかも知れず長居は禁物だった。

次に私は他に一軒家を借りてそこに移り、そこで党員の会合を開いて今後の方針について協議した。

私が国内にいては危険だから一日も早く外国に逃れたがよいということに皆の意見が一致したのだが、私は賛成しなかった。

「まあ、もう少し考えてみることにしよう。もっとほかにいい方法があるかもしれないからね。外国に逃げるのは最後の手段さ」

党員の会合はひとまず解散し、その翌日また集まったのだが、外国行きを勧告する者は更に多くなっていた。中には日本行きの切符を買って来てまで私に熱心に亡命を勧めるものさえいた。

「さあ、一刻も早く出発して下さい」

私は同志たちのの温かい心に感動しつつも、しばらくじっと考えた末おもむろに口を開いた。

「ありがとう。私は同志諸君の厚意に対し大いに感謝します。

そこで、今後私がどんな手段をとるべきかについてなのですが、結論的に、私には二つの道が残されていると思います。

その一つは、どうせ私がここで捕らわれるならば、他の者の手にかかるよりも諸君の手で官憲に突き出して貰いたいということです。

(ここまで話すと、わたしを囲んでいた同志たちは『何を言うか』と言わんばかりに眼を丸くした。)

諸君は無謀なことをいうな、「自分達にそんなことが出来るか」と云うでしょう。しかし、冷静に考えみてください。僕の首には12000ルピーという莫大な賞金がかけられているのです。

(私が捕まらないので私の賞金はだんだん攣りあがって12000ルピーになっていた)

革命運動の資金の不足している我々同志にとってこの12000ルピーは実に尊い戦費だと思います。その賞金を使って我々の運動を今後有利に展開することができるならば、私は今捕らえられて死刑となってもいいと思います。

もう一つの方法は、私が捕らえられるまで逃げ続け国内に踏み止って最後まで運動を続けるということです。

諸君の厚意はありがたいのですが、私には自分の安全を守るためにインドの危機を忘れ同志と別れて外国に亡命する気はありません。」

そう云って、私は同志が買い求めてくれた外国行きの船の切符をみんなの見ている前でびりびりに引き裂いてしまった。

一瞬、室内は静まり返った。

無言の感激に息詰まる思いがした。

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1.我が闘争の記, 独立の闘争

警官の捜索を隠れ家から見る

故郷の町シャンデルナゴルが「24時間の安全地帯」であると確信していた私は一日中誰に憚る所もなく大手を振って町を歩いた。同志の革命青年達と何回となく会合して互いにインド独立の前途のために胸を開いて論じ合った。

私は常に大胆不敵の行動をとる一方、緻密細心に計画し、用意周到な行動をすることを怠らなかった。余計な心配や徒らな狼狽は決してしなかったが、物事は凡てちゃんと計画をたて、これなら安心、これなら大丈夫という道を常に進んだ。この日の私の行動も典型的な例である。

その日の夕方こっそりと我が家を抜け出して私のひとりの部下の家に忍び込んだ。その男の父親が行政長官をしていたので、その家が私が1泊するに一番安全だったからである。

私が一夜の宿として身を忍ばせた行政長官の家は私の家より僅か半町ほどしか離れていななかった。そのため、その家の窓から私の家の様子が手に取るように見られた。翌朝、仏国と英国の警官が私の家を包囲して、物々しい捜索をしているのがその家の窓から見えた。

警官の一隊は正午ごろまでかかって近所を片っ端から捜索したが何物も発見することが出来ずに空しく引き上げた。この、見ていても気分の悪い情景を私は窓から観察した。

私はもちろん捜索されることを予想していたから証拠物件となるようなものは何等我が家には残しておかなかった。

警官隊が我が家から引き揚げたのを見て私は行政長官の家から再び我が家へ戻ることにした。

同志や部下の者達は心配して私を止めようとした。

「先生それはあまり危険すぎませんか。」

「捜査済みの家ほど安全な隠れ場所はないじゃないか。」

私はそんな心配を横目にさっさとわが家へ戻った。それから4、5日私は我が家で無事に過ごした後、5日目には危険さを感じ、隠れ家を移した。すると、その翌日の6日目に第2回目の家宅捜索が行われた。まさにたった1日の違いでまたもや危機を脱することが出来たのである。

次に選んだ隠れ家は同志の兄の妾宅だった。この妾宅を隠れ家と定めるについて一つの挿話がある。

同志の兄という人は、素行のおさまらない道楽者だった。弟が立派な革命同志であるのとは全く正反対に兄は堕落した生活をおくっていた。兄と弟の人格の違いは天と地ほどの違いであった。

その弟が熱誠をもって兄に私をかくまってくれと頼んだのである。その道楽物の兄は弟の熱誠に動かされたものであろう勇気を出してくれた。

「弟、わかったぞ、よくわかった。俺だって同じインド人だ。俺達と同じ血の仲間が英国の官憲に苦しめられているのを見殺しにすることは出来ない。よろしい、安心しな。俺が命をかけてかくまってやるよ。」

そして手のつけられなかった道楽者がその日から生まれ変わったような真面目な人間になったのであった。その日を境に一滴の酒も口にしなければ、外の同志と連絡を取る用事を果たす時以外は決してその妾宅に足を踏みいれなかった。

お妾さんも気丈がしっかりした女で、革命の志士である私を何くれとなくよく世話をしてくれた。

そしてこれは私がその妾宅を離れた後に聞いた話しであるが、男は女に暇をやり、女はそれを転機として尼になり清い生活に入ったということである。

人間が心気一転の機会はどんなところにあるかわからないものだ。男といい、女といい、何という変わり方であろう。私はこの話にはひどく胸をうたれた。

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1.我が闘争の記, 独立の闘争

忠実な官吏 実は革命の首領

私を乗せた列車が私の郷里のシャンデルナゴルに着いたのは翌朝の四時頃だった。私は一応シャンデルナゴルの駅で下車した。

その頃になったら、デリーでハーディング卿が襲われた事件はシャンデルナゴルにも知れ渡っていた。新聞には私のことが写真入で大きく書いてあった。新聞はあいかわらずあてにならないもので、随分勝手なことを書きたてていた。『彼はヒマラヤの山中に逃げ込んだ』とか、或いはまた、『アフガニスタンに逃亡した』とか、はては『遠く海外へ逃亡した』と書いている新聞まであった。

ホームを出ると二人の警官が警戒網を張って私を待ち受けていた。朝がまだ早かったのが幸いして、二人とも気を許して構内のベンチで居眠りをしていた。私は薄氷を踏む心地で居眠りしている二人の警官の前を足音を忍ばせて通りぬけた。

改札口に来ると、私を知っている駅員はターバン姿の私を見て、ニッコリ笑って何も云わずに通してくれた。私は声を出すことも許されない状態であったから心の中でお礼を言いつつ駅を去った。

私は駅から数町離れた我が家へ朝の道を急いだ。家に着いて間もなく私の帰郷を聞き及んだ同志達が沢山心配して駈け付けて来てくれた。

同志達は変装した私の無事な姿を見て口々に私に言った。

「新聞を見て随分心配していたんだよ。どうやって帰ってきたのか話してくれ」

「まあまあそう騒がずに寝かしてくれよ。おれは汽車でよく寝なかったので眠くてたまらないのだよ。」

私は同志たちに言葉少なに挨拶して朝食をすまし、ごろりと横になってぐっすり一眠りした。

私が目を覚ますと、デラドゥンで懇意だった高等警視の弟がやってきた。

「たった今、デリーにいる兄の高等警視から電報が来たのですが、大変なことになっています。

実はあなたには革命運動の首領であるとの疑いがかけられているそうなのです。あなたに限ってそんなことはないと信じますが、なにしろ心配でなりません。これから私と一緒にカルカッタの警察に行って身の証をたててはいかがですか」

彼はどこまでも、私を英国に忠実な官吏と信用しきっていたのだった。その様子を見て私は腹の中でおかしくてたまらなかった。私は笑いをかみころして落ち着き払って言った。

「それはご親切にどうもありがとう。ご期待に背いてなんとも相済まないけれど、私は立派な革命黨員なのです。デラドゥンでは、お兄さんにいろいろな機密書類まで見せて貰ったお陰で大変運動の上に役にたちました。

私が厚くお礼を申しあげていたとお兄さんにお伝えください。」

私はそう言い終えると皮肉な笑いを顔一面に浮かべたのだった。

私のこの言葉を聞いているうちに警視の弟の顔色は次第に蒼く、赤く変わっていった。高等警視の弟の顔には忿懣の色がありありと読めた。

『何ということだ、兄はこの革命家のために赤子のように翻弄されていたのだ。にくい奴め』

彼は席を蹴って憤然と帰っていった。

そんなことがあっても私はすぐに逃げようとはしなかった。私が落ち着いていられるのにはこんな理由があったのである。

インド国内には治外法権ともいうべき仏領が五箇所もあり、シャンデルナゴルという町もそのひとつであった。

フランス領に属している町にはイギリスは勝手に手が出せなかった。つまり、いかに暴威をふるう英官憲といえども、私を逮捕するにはフランス官憲に交渉した上でなければ自由に動けなかったのである。

警視の弟がデリーの兄のところに電報を打ち、イギリスのインド総督からフランスの官憲に交渉があって初めて逮捕の手を下すとして、それらの手続きの時間を見積ると、最低1日の余裕はあるはずだった。

これを知っていた私は落ち着き払っていた。

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